2012年御翼11月号その1

神様のポケットに入る

 ノートルダム清心学園 元学長、現在理事長の渡辺和子シスター(85歳)は、マザー・テレサが来日した時、通訳を務めた。身近に接したマザーからも多くのことを学んだ。例えば、マザーが行くところどこにでも報道陣と群衆であふれていて、絶えずカメラマンがシャッターを切り、フラッシュがたかれた。それでもマザーはいつも笑顔でいた。感心する渡辺シスターに、マザーはこう言った。「わたしはフラッシュがたかれる度に、魂が一つ、神様の御元に召されていくように、神様とお約束がしてある。つまり、私は嫌な顔をしません。どんなに煩わしいフラッシュでも、シャッターでも、私が小さな犠牲、小さな死を遂げる、その代わり神様、一人の人を救ってください、とお約束がしてある」と。このような、行いが直接人の魂の救いにかかわるという思想は、カトリックならではのような気がする。しかし、プロテスタントもカトリックも、共に神に仕え、神に感謝し、根底にはキリストの十字架への信仰がある。だから、クリスチャンたちは融和すべきであり、どちらの立場にあっても、誠実に神に従うならば、神はその人を立てて用いられる。
 渡辺和子シスターは、かつて修道院を出ようかと思ったことがあるという。それは、「くれない族」になったのだ。「分かってくれない、親切にしてくれない、慰めてくれない、お辞儀してくれない、感謝してくれない」という思いで過ごすのが「くれない族」である。みんながしてくれるはずだ、私は黙っていてもいい、なのにしてくれない、だから私は不幸だ、という姿勢である。36歳で学長になっても、「シスター大変ですね」と誰も慰めてくれない。「この間のスピーチは良かったですよ」と誰もほめてくれない。挨拶してくれない。感謝もしてくれない。そういう「くれない族」になった。その時、上司の神父様に不平をもらした。すると、神父は笑いながら、「あなたが変わらなければ、何も変わらないよ」と言われた。そこで、今までは、幸せにしてもらえると思っていたが、自分が変わろうと決意した。自分がすすんで学生に挨拶をし、笑顔で接する。ある意味、損をするような態度をとるようになったら、学校が明るくなったという。
 学生に、学長自らが「おはようございます」と言って挨拶をしているのに、返事がないときがある。その時に、「あ、ここで腹を立ててはいけない。神様のポケットに入った」、と考えることにしているという。神様にポケットがあるかは分からないが、私の挨拶は無駄にはなっていない、私の微笑みも無駄になっていない、神様のポケットの中に入って、神様が好きな時にお使いください、と委ねるのだ。
 ヨハネ12:24「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とある。「私が挨拶をしても返事がない時に、むしろああよかった、返事がなかったから神様のポケットに入った、と思える。返事が返ってきたら、プラスマイナスゼロになる。力のない自分にできることは、自分がせめてわがままとか、いじわるとか、悪口とかを自分の中で収めて、神様のポケットの中に入れて、神様どうぞお使いくださいというそんなことしかないのだ」、と渡辺シスターは言う。

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